学校の授業についての必要性

まっちー投稿 2022/5/25 23:51

undefined 文系 北海道

青山学院大学法学部志望

正直学校の授業は頭に入ってこないし、すぐ眠くなって集中できないし、進度は遅いなど僕は自学自習の方が効率的でいいじゃないか!と思っています。しかし僕の学校は単位制で授業中に寝てしまうと単位を下げられてしまいますし、1番前の席で内職もできない状況です。先輩方はどのようにしてきましたか?

回答

たけなわ投稿 2022/5/26 20:54

北海道大学法学部

⑴ 私は基本的に学校の授業には真面目に参加したつもりです。なので、厳密には内職賛成派でも反対派でもない中核ですが、どちらかに強いられれば内職反対派に傾くと思います。ということで、以下の内容は、内職反対派=授業の時間は授業至上主義の立場からの意見です。参考までに。

⑵ やはり何事も、それをすること自体が目的となってしまうと、なぜそれをする必要があるのか分からなくなってしまいます。したがって学校の授業も、それを受けること自体が目的となってしまうと、席に着いてぼーっとしてるだけでも達成できてしまうため、他に追究するものもなくつまらなく感じますし、そのために集中もできず眠くなりますし、内容も頭に入ってきません。この負の連鎖から脱するためには、学校の授業を受けるにあたり、それが何らかの目的あるいはミッションを遂行するための手段として相応しいものとなるような目的あるいはミッションを、自分自身に課す必要があります。その目的あるいはミッションが何であるかは、学校の授業を受けることの意義、必要性に大きく関わります。

⑶ 例えば、古文の授業では「ここの助詞「は」をどう訳すかがポイントだ」、数学の授業では「この問題を解くためのポイントになるのがここだ」や「この問題にはこういう解き方もある」など、英語の授業では「ここの”for”をどう訳すかがポイントになってくる」、といったように、入試に必要な学力を養うのに重要となるポイントというものを、先生は授業で教えてくれるはずです。だから、そのポイントとなる部分で、先生がどういった考えの下、どういった方法でその正解を導き出しているか。これに注目し、先生の知識や考え方を盗んで自分のものにすることが、学校の授業を受けるにあたっての最たる意義の一つであると私は考えます。言わずもがな、学校の先生はその科目のプロです。そのプロフェッショナルな能力を自分のものにできれば、受験において怖いものなどないはずです。

⑷ また、学校の授業を受ける必要性について、もう一つ重要なものがあります。それは、自学自習で得た自らの理解に対して反省を促すことです。かつての日本の概念法学を徹底的に批判し、新たに実用法学という道で革命をもたらし、現在の法社会学の先駆けともなった日本法学の最高権威とも言うべき者の一人に、末弘厳太郎先生という方がいますが、彼曰く、「人間というものはその時々の自分の能力に応じてできるだけのことしか理解しえないもので、それにもかかわらず自分一人では大いに何もかも解ってしまったような心持でいるものだ。……本を読んで……もすべてをただ自分流に理解するだけで結局は物織りになるにすぎない。」とは非常に的を射たお言葉です。確かに、学校の授業は進度が遅いものもあるだろうし、その点自学自習は自分のペースで進められるから効率が良いというのは間違ってはいません。しかし、それは自分で先取り学習をやるべき理由にはなっても、学校の授業が要らないというべき理由とまでなるのは明らかな飛躍があるでしょう。それにもかかわらず、学校の授業の一切を無駄なものとして切り捨て、その時間を内職として別内容あるいは別教科に充てるのは、極めて愚かな判断であると言わざるを得ません。もしかしたら自分の理解に欠陥があるかもしれない、もしそうなら、受験本番にその欠点を突かれたらおしまいだ、ということが現実に起こり得ます。なので、学校の授業といえど、決して疎かにはできないものだと私は考えます。「分かっていたつもりだけど、実際授業を聞いてみると自分の理解とは違った」ということがあると、その反省の好機を逃してしまうのは非常にもったいないですね。

⑸ 以上のことを意識して、明日から学校の授業への取り組み方を変えてみると、つまらなく感じていたはずの授業の中に、自分なりの面白みを見出せて少し楽しく感じるかもしれません。結局は、すべてあなた次第です。変えるべきは授業ではなく、自分自身であるということを頭に入れておいてください。

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