東工大or東北大、自分に合うのは

いみじきほね投稿 2022/5/29 01:42

undefined 理系 千葉県

東京工業大学理学院志望

志望校をどちらにしようか迷っています。
前期東工大(理学院)、後期東北大(理学部)という選択でどちらも受けることは出来るのですが…
以下理由を書きます。それをふまえてアドバイスお願いします。
■東工大の理由
・研究力
・周りの人(あまり偏差値で優劣つけたくはないのですが、あえて挙げます)
・実家から通える
■東北大の理由
・教育学部がある(下に詳しく書きます)
・好きなYouTuberが仙台出身で、仙台自体に興味がある

私は将来数学教師(高校)になりたいと考えています。大学ではガッツリ数学を学び、高校数学と大学数学の繋がりや、社会への数学の活かされ方、そして何より数学の面白さを生徒に教えていけたらいいなと思います。実際私も、担任が話してくれたバーゼル問題から数列、そして数学に興味を持ちました
しかし一方で、日本の教育制度のあり方についても色々知りたいと考えています。参考書やYouTubeなど独学での勉強環境が非常に整っている今、学校の存在意義は何なのか(教員志望の私が言うのもなんですが笑)。ブラック校則はもっと改善されるべきではないか。学費はもっと支援されるべきではないか、などなど…

これらの問題を詳しい人と話したいという理由から、教育学部があり、且つ仙台にも興味があるので東北大が候補にあります。でも理学部と教育学部はキャンパスが違うので、ほんとに触れ合えるかはちょっと未知数です。サークルとかで知り合えるものでしょうか…

二校で迷っている理由は主にそこです。東工大に入ったとしても、大学以外の繋がりで教員志望の方とはいくらでも話せると思います。それでもやはり、触れ合える確率や頻度は東北大が上回るのかと。また、東工大に行きたい理由のところには、研究力や周りの人など書きましたが、東北大も大きく劣ることはないと思います。なんか上から目線っぽくなっていてすみません。全然そういう意図はないです。

最近は寝る前にどっちにも受かるほどの学力があるのを妄想して、それを支えに勉強してました。そしてどちらにするかという悩みが生まれました。

正直、大学は教師になるための通過点なので、どちらに入っても、いや最早、この2つの大学以外でも後悔はしません。この先受験成功するにしろ、失敗するにしろ、真剣に悩んだ上での方がいいと思い、相談させていただきました!

欲しいアドバイスは、私により合う大学はどちらか、です。
とても長くなりましたが、ここまで読んでくださりありがとうございます。
よろしくお願いします。

回答

たけなわ投稿 2022/5/29 08:05

北海道大学法学部

 私なりの見解を書かせていただきますね。志望校選択の参考になれば是非。

⑴ まず、東工大と東北大の最も大きな違いは何かと言うと、前者が単科大学(college)であるのに対し、後者が総合大学(university)であるということです。すなわち、東工大は、ある特定の理系分野の学問を学ぶ意欲のある者たちで構成される一方、東北大は、文理問わずあらゆる分野の学問を学ぶ意欲のある者たちで構成されます。なので、東工大で教育の議論をする場合は、その理系分野における圧倒的に専門的な知見に基づく議論ができますし、東北大で議論する場合は、理系の専門的知見に触れるのはもちろん、文系の専門的知見に基づく議論も期待できます。この点で、触れ合える知見や学問の幅は東北大の方が広いと言えますし、幅は狭くとも限られた分野でのより深い議論については東工大も負けていません。

⑵ やはり、東北大と東工大では入試問題の難易度の差は歴然です。日本の最難関大学の呼称として、「東京一工」というのがありますが、「工」として東工大がそこに躍り出ているだけあります。また、東工大は共通テストの段階で合否があり、そこで合格した者が二次試験を受けられます(パスナビ調べ)。対して、東北大は共通テスト段階での合否判別は特にありませんが、合否ラインに志願者が同点で並んだ場合、主体性評価チェックリストによる評価が高い志願者を優先的に合格とするそうです(パスナビ調べ)。このように、入試科目は同じでも、合否判別の方式に大きな違いがあります。とくに共通テストにおける「足切り」の存在はかなりデカいです。

⑶ 難関大の後期日程は、倍率が恐ろしく高いです。東北大で言うと、前期日程の倍率がせいぜい2.5〜3.0倍くらいであるのに対し、後期日程の倍率は2020年で6.0倍、2021年で13.8倍と、競争者数が比にならないくらい多いです。また、北大も後期日程がありますが、このような北大あるいは東北大の後期日程を受けるのは、東大や京大などの最難関大学を前期に受けている者ばかりです。そんな強者たちと、通常の倍率で争うのも厳しい戦いを強いられるのに、その何倍もの倍率で争うのは、考えただけでも身の毛がよだちます。

⑷ 最後に、何かの参考になるかは分かりませんが、私の、法学部生としての学校教育に関する見解を述べておこうと思います。
 「社会あれば法あり」とは、古くから言われてきた諺です。では、社会とは何かというと、「家族や帰属する組織・団体などを単位として生活を営む人びとの集団」(新明解国語辞典第七版)です。法とは何かというと、社会規範、すなわち社会生活の秩序を保つために人々の行動を規律する規則の一種です(法と法律は混同しやすいですが、法律は法の一種であり、法律=法ではあっても法=法律では必ずしもありません)。すなわち、学校というのも一つの社会であり、そこにある規則、すなわち校則というのも一つの法であると言えましょう。
 それは、国家社会という一つの社会があり、法律や条例をはじめ色んな法によってそれが規律されているという、最も大きいレベルの社会生活が、学校という小さいレベルに縮小されて投影されているものと見ることができます。したがって、学校の存在意義とは、そういった、一定の法の下で生活を営むという社会生活の能力を涵養することにあると私は考えます。だからこそ、家庭科、保健科、体育科という科目のほか現代社会科目などや部活動があるのであり、入試科目の勉強はそのほんの一部にすぎません。例えば、同年代の人たちとの対等なコミュニティの形成、その中での他者との触れ合いを通して、人への接し方を学ぶということは学校無くして独学でするのは極めて難しいでしょう。このように、図らずも学校教育から享受している恩恵というのは、我々が意識している以上に大きいものです。
 ところで、余談ですが、学校社会における法としてブラック校則があるならば、それはいわゆる「悪法」ということができるでしょう。このような「悪法に従うことは悪なのか」とは、法哲学における最も大きなテーマの一つです。これについて考えるには、そもそも「法とは何か」、「悪とは何か」といったことから考えなければなりません。また、H・ケルゼンは「法段階説」といって、法として成文される以前にある根本規範があり、高度に一般的な憲法がそれに従い、またその憲法からより具体的な法律へ、さらにそこから個別的な命令、判決、行政処分へと授権がなされ、その授権関係により法体系が統一されるといいます。ブラック校則が、それより前の段階の法にちゃんと従っているのか、そういったことを考える必要性も十分にありますね。ブラック校則についての問題は依然難しいものです。

 昨今、文部科学省の動向や公立学校の教師の問題などがよく注目され、学校教育について考えさせられることの多い世の中です。教師間のいじめなどにも見られるように、教育者として成熟した大人であるべきはずの人間が、もう一度教育されなければならぬほど未熟で幼稚な者であるという悲惨な現状もあります。子どもが子どもを教育しているのです。あなたほどの教師に対する志を持った方はそう多くはおられないでしょう。今の学校教育の腐った一部を改善するには、あなたのように教育者になる大志をもった方が必要なのかもしれません。きっと素晴らしい教育者になるだろうことを祈っています。

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